海禅寺の歴史
海禅寺は、その草創は少なくとも平安期にさか上ると推定されています。
現在の長野県東御市に、「海善寺」という地域がありますが、これは開善寺(海禅寺の旧名)がかつてあった故に名づけられた地名であります。
開善寺は古くから皇室と縁の深かった滋野氏や、その系統を伝える豪族海野氏の祈願寺として栄えてきました。
戦国時代、武田信玄が小県郡を平定したとき、まず願文を捧げたのは、名社「生島足島神社」と、この開善寺でした。(現在願文は、上田市立博物館にて展示)
その後、天正11年(1583年)、真田昌幸公の上田城築城にあたり開善寺は、城の鬼門除けのため現在の地に移され、「海禅寺」と改称、上田城下町鎮護の寺となりました。以降約430年余り、その間、学問所が設置され、談林所としての役を果たす時期を経て、多くの檀信徒の皆さまのお支えをいただきながら、現在に至っております。
永禄五年十一月 開善寺宛武田信玄 判物
〔訓読〕
定
一 今度頼み存じ候祈念成就せしば、開善寺領相違の所、この巳然の如く寄附すべきの事
一 寺中悉く皆相計らるべきの事
一 隠居分五貫文の所、異議あるべからざるの事
右具に前あり
※開善寺領を安堵し、祈願成就の後さらに旧領を還付することを約束した武田信玄よりのもの。
永禄六年九月 開善寺宛武田信玄 寄進状
〔訓読〕
先の願書の旨に任せ、十坊並びに大鼓免、右上司三十六貫五百文の所、等癸亥年より還附せしめ訖んぬ。向後臨時の法事として、仏前に於いて毎日法華妙典二巻読誦あるべし。然していよいよ武運長久、分国静謐たらば、相残る寺領旧規の如く寄進し奉るべきものなり。仍って件の如し。
※武田信玄が、開善寺から願いでていた願書の旨に任せて、十坊やそのほか寺領を還附するほか戦乱が終わったら残る寺領も寄進することを申しわたしたもの。