聖天祭に託す思い

第1章 ご縁のはじまり 〜聖天さんを巡るあれこれ〜
2018.09.26
聖天さん
海禅寺は、長野県上田市の市街地にある真言宗智山派の寺院です。
そもそも平安時代後期よりお隣の東御市にありましたが、天正11年(1583年)戦国武将・真田昌幸が上田城築城の際、城の鬼門除けのために、現在の地に移転建立しました。以来、いわゆる檀家寺として、信州上田の地に根を下ろしています。
さて、ことの始まりは今からさかのぼること10年前。2008年のことでした。あるお檀家の女性が境内にある一族の墓地を、今後寺で維持管理をして欲しいという永代供養の依頼でおいでになりました。そして、そのお礼の寄進として、寺の建物をどこか修繕して差し上げたいとおっしゃるのです。
では寺として何をお願いしようかと様々にやり取りを重ねる中で、最終的にその方が指をさしたのが、境内地の中でひときわ老朽化が進んでいた聖天堂でした。それは、“聖天”(正式には「大聖歓喜天」)という名称の仏様を祀っている小さな建物でした。この仏様は、男性性であるゾウの頭を持ったインド由来の神と、女性性を表す十一面観音菩薩とが夫婦の姿になった密教独特の尊格です。一説には、あらゆる神仏の中で最も力が強く、ご利益も絶大だと言われていますが、そのための供養は拝む僧侶にとって、非常に厳格な内容が伝統的に課されています。そして、ひとたびそれを違えれば、大きな障りがあるとされ、それ故に聖天尊を知る僧侶の間では、覚悟を決めて拝む行者を除いて、恐れ避けられています。
海禅寺でも私の知る限り、先代住職の代から中途半端な供養をするよりは、触らずに封印しておこうということで、この聖天堂は年に数回掃除のために中へ入る以外、ほぼ開かずのお堂となっていました。いわゆる「さわらぬ神のたたり無し」です。そうしたお堂を「建て直したい」というご提案をいただいたわけです。ですから当初寺としては大いに戸惑いがありました。
しかし、たった一人でこんな大事業をしてくださる大施主があらわれたことは、きっと何かの縁かもしれないと思い直し、この申し出をお受けすることになりました。
葛藤とこれから
お堂内の仏様や荘厳具を本堂脇の部屋に移動した上で、古い聖天堂を解体。そして地鎮祭、施工と順調に工事は進み、2010年には立派な聖天堂が完成しました。またお堂内で不足していた荘厳類は、檀信徒の皆さん方より任意で寄附を募って整えました。またこの間、聖天尊を供養するための伝授を、然るべき僧侶の方々から授法し、加えてこの仏様にまつわる様々なことを調べ、その理解を深めました。
そうしていく中で改めてわかったのが、聖天供養法の厳しさです。正式な供養をするには、一日も休むこと無く、決められたお勤めを正確に納めなければなりません。私は普段、寺に併設し運営をしている社会福祉法人の保育所で、保育士資格を持ちながら副園長として勤務をしています(園長は父である海禅寺住職)。そうした環境の中にあって、聖天尊を供養する伝統的な勤めを果たすのは、到底できないと思いました。それでは、またお堂は封印せざるを得ないのか。しばらく葛藤の時期を過ごしました。
しかし多くの檀信徒の皆さんの浄財を頂戴し、立派に整った聖天堂の前に立つと、このお堂をこのままにしておいていいのかという思いがフツフツと湧いてきました。そんなときに頭をよぎったのは、「箱物(ハコモノ)行政」という概念です。これは施設や建造物の建設・整備そのものが目的になり、計画や運用で本来明確にすべき「それを何に利用するか」や、「どのように活用するか」が、十分に検討されないままに事業を進めることを揶揄した言葉です。このお堂をこのままにしておいては、いわゆる「箱物行政」ならぬ「箱物仏教」ということになってしまわないか。立派なハコはあるけれど、それがまったく活かされない空っぽの場になってしまっては、多くの皆さんの思いを蔑ろにしてしまう・・・。
またちょうどその頃、私と縁の深い僧侶の大先輩から、聖天尊についてお話をお伺いしていた際、「厳格な供養ができない場合でも、そのまま何もしないよりは、できる範囲で可能な供養の方法を聖天尊とお約束をして、それを実行すればよい」という考え方が伝統的にあることを教えていただきました。これは何かできそうだ。いや何かしていこう。私の中でこれからの展開に向けて“意思”が芽生えだしました。このご縁を活かして、寺に人が集まる何かをやろう。これが「聖天祭」の始まりです。